過去記事にも書きましたように、 この本の作者、宇佐先生は亡き父がお世話になった方です。亡き父のご縁とでもいいましょうか?昨年の後半になって、突如として私の中に「今目の前にあることを片付けるだけ良い。片付け続けていって、将来自分の思う方向に進めなかった場合、撤退すればなんの問題もない。」との思いが沸き起こってきました。
その当時、ビジネスの勉強をしておりまして・・・「自分の世界観を書け」という宿題が出ました。世界観なんて普段は意識したこともなかったのですが、宇佐先生に父がいただいてきた色紙「あるがままに生きる」という一文を思い出したのです。
深く考えず「自分の世界観はあるがままです」と書いて送りました。この思いつきは、偶然にも自分の創作物のテーマでもあったのでした。
あるがままに生きる=生きることに意味づけをしない。
なんのために生きるのか?などと考えてもわからない。わからないことをもっと追求するから、ストレス三昧になってしまう。わからないことは横に放りなげて、とりあえず今目の前にあることをやりましょうという考えに発展していったのです。
あれから半年ほど経った現在、どこから湧いてくるのかわかりませんが、落ち着きが出てきたと自分自身で感じています。未来へ不安を感じることがほとんどなくなりました。人に振り回されることもなくなりました。多少ながらも自信が出てきたということでしょうか?
前置きが長くなりましたが・・・
宇佐先生が以前院長を務めておられた京都の三聖病院では、(今は閉院)世界美術史講座というものを開講されていたようです。スライドを見せながら、美術の歴史、美術品などの説明が行われ、受講者さんたちは絵を見ながら先生の講話を聞くというものです。
この講座の根底には、見ることと知識を得ることとは別の領域であるという思想があります。美術に限らず、音楽においても同様です。音楽評論家の文章や本の知識などに気をとられて、ご自身の感覚を修正してしまう方がおられます。これは、せっかくの独自の体験を捨て、概念によってわかった気持ちになってしまうこと。
どの分野においても、ご自身の感覚を頼りに手探りで鑑賞することによって、作者の世界とつながることができるのだと思います。
神経症(京都三聖病院は森田療法の病院でした)の方は、理屈を重視することによって葛藤を引き起こすのだそうです。こちらでの世界美術史講座は、理屈を捨てるための修養(治療の一環)でもあったのだと思います。
見るという体験(聴くことも含む)による美の創造は、生きることの創造にもつながっていく。この美の創造への参加が神経質からの脱皮につながると、宇佐先生はお書きになっておられます。
これは自分と創作者の世界観の共有とでもいいましょうか?内にこもらず、外側へ注意を向けることにもつながると私は思います。
少し前に、下記の記事を書きましたが・・・根底にあることは同じです。
スピリチュアル楽曲分析という記事も同様。私独自の分析(作者の内に踏み込む)によって、創作や演奏、鑑賞だけではなく、生きることの創造につなげられたら・・との願いを込めて書いています。